留学経験が視野の広い人間に成長させてくれた

はきはきと笑顔でインタビューに答えてくれたノドカさん。中学3年生で参加したカナダ・バンクーバーのサマーキャンプを手初めに、高校1年生にオーストラリア・シドニーのサマーキャンプ、高校2年生ではカナダ・トロント語学留学と、3年に渡り夏休みは留学ヘルパーのプログラムに参加。
その経験で培った英語力を活かし、関西学院大学時代にはラトビアの大学で交換留学生として、英語で経済を学んだ。留学中に困ったことはほとんどないと何事にも常にポジティブ。コロナ禍での就職活動も冷静に自分と向き合い、大手エレクトロニクスメーカーで社会人としての一歩を歩み始めたノドカさんの留学ストーリー。

初めての留学はカナダのサマーキャンプ

2013年、中学3年生の初めての留学先に選んだのはバンクーバーの全寮制語学学校でのサマーキャンプ。セキュリティも万全で、カリキュラムも厳しすぎず、楽しく過ごしながら英語力を学ぶ。全く英語を話せなかったが、6週間の留学生活で感覚で英語がわかるように。

留学しようと思ったきっかけは

中1の時、家族旅行で行ったアメリカのディズニーランドで現地の日本人ツアーガイドの方が、英語でコニュニケーションをとって楽しませてくれた姿に感銘を受けた経験が大きいです。
兄妹3人とも中高一貫校で、兄と姉は厳しい部活に入っていたのですが、私は受験も無く夏休みものんびりしていたので、親が「経験にもなるから、とりあえず留学に行ってみたら」と。そうは言っても私が全く英語を話せないので心配して、母の友人を介して留学ヘルパーを紹介していただいたんです。それで中3でバンクーバーのサマーキャンプに6週間、高1でシドニーのサマーキャンプに5週間、高2でトロントの語学学校に4週間行きました。

初めて留学した中3の時は、不安はなかったですか

心配というより、サマーキャンプがどんなものなのかよくわかっておらず、「行ったらなんとかなる」と思っていました。
学校の留学プログラムに参加したわけではなかったので、団体での移動もありませんでした。空港まで親に送ってもらって、そこからは航空会社の方がついてくださって安心でした。アメリカでの乗り換えも日本人のCAさんから、アメリカ人のスタッフさんにバトンタッチして付きっきりで送って下さいました。バンクーバーの空港には語学学校の寮の管理人さんが迎えにきていました。

6週間のサマーキャンプでの生活を教えてください

最初にレベル分けテストがあって、その後は1週間~2週間に1回、クラス替えがあります。スケジュールはゆるやかで午前中は勉強ですが、
午後は屋外でサッカーとかフィールドワークや遊びを通して仲良くなるようなスケジュールでした。宿題も「これを書いてきてね、明日はテストだよ」という感じで、厳しくなかったです。
留学生はメキシコやヨーロッパの方が多かったんですけど、私より英語が上手でしたね。日本人も多かったです。
語学学校と寮が同じ敷地内にあって、1人部屋でした。朝ごはんは寮の2階の食堂で、ビュッフェスタイルで自由に取って食べ、お昼は2~3種類のお弁当の中から好きなものを選んで学校の芝生で食べます。晩ごはんはまた食堂で朝とは違う感じの食事が用意されていました。
外出時は必ず1人か2人引率のスタッフの方がいて、「何分後にここに集合」という具合で、私はティムタムなどのお菓子を買いにいったりしていました。1人で外出することは出来なかったので、学校以外の人と友達になる機会はありませんでした。

ホームシックになりませんでしたか

寂しくて泣いたことはなかったですね。最初の頃はまだ日本の他の学校が夏休みに入っていない時期で、英語がわからないのに日本人は私一人で困ったりはしましたが、何とかなると思っていました。
実は、カナダに着いた日に携帯電話を落として割ってしまって、表面が粉々に割れて電源がつかなくなってしまったんです。それでもどうにか親に連絡をとって、連絡手段として日本からiPodを送ってもらいました。とにかく新しい環境や文化を楽しんでいましたね。帰国の時は帰りたくないと思ったくらいです。

6週間で英語は身につきましたか

それまでは中学の英語のテストが苦手で平均点を下回ることが多かったんですけど、帰国してからは、感覚でこの次はaやtheが必要だとわかりました。出来るようになると英語が楽しくてリスニングやスピーキングが得意になりました。

違う国の生活を知る

2014年の夏休みは南半球のシドニーでホームステイを経験。初めてのバス通学も経験し、学校の行き帰りや週末の
街歩きで海外生活の楽しみも知る。ホームステイ先で出会った同世代のメキシコ人のルームメイトと友情を深め、
英語力も養った。

高校1年でシドニーを選んだのは

親とも相談して「他の国に行ってみたい、次は南半球に」とシドニーの語学学校のサマーキャンプに参加しました。1年で少し英語も上達していて、学校で習ったばかりの文法が実際の会話に出てきたのがわかって嬉しかったですね。
ホストファミリーはメキシコ人のお父さんとオーストラリア人のお母さん、私より少し年上のお子さん3人のご家庭で、みんな学校や部活で忙しくしていましたが、夜だけは全員一緒にご飯を食べていました。運が良かったのは、同時期にお父さんの姪がメキシコからホームステイに来ていたこと。そのルームメイトとは部屋も隣同士ですごく仲好くなりました。今でもSNSを通してお付き合いがあります。

学校生活はどうでしたか

授業は朝から15時くらいまでで、土日は休み。宿題は毎日1時間分くらいの量が出ました。通学は現地の交通機関を使います。ホームステイ先からバスで大きなバスターミナルまで行き、そこで乗り換えるのですが、バスターミナルの近くにデパートや水族館があって、時には友達と学校帰りに寄り道したり。治安が良いので女の子数人で街歩きしても問題ありません。バンクーバーの時より街を知る機会が多くて、一層「海外は楽しい」と思うようになりました。
カナダの学校に比べてヨーロッパ人は少なく、日本人を含めアジア系の留学生が多かったですね。韓国人はやはり韓国人同士集まりますし、なかなか他の国の留学生と深く親しくなるのは難しかった印象です。私はルームメイトがいたので常に英語で話して、時には彼女の母国語のスペイン語を習うこともあって、その影響で大学ではスペイン語を選択しました。
バンクーバーやシドニーでは、どうしても日本人同士のグループが出来てしまい、日本語でずっと話している人たちもいたんです。英語だけで話したいと思っても、日本人の輪から自分だけ外れるのもなかなか難しくて。日本人留学生と会わない週末の方が英語の環境で過ごせて充実していました。
南半球は日本と季節が逆なので、現地の夏に行く方がいいなと思いました。海はすごくきれいなのに、寒いから入れなくてもったいないなと。
冬と言っても、長袖にストールくらいでよいので過ごし易い気候です。

シドニーでは語学力はつきましたか

帰国して実感できました。学校のテストの成績としては出にくいのですが、リスニングは「大体こんな感じかな」と大まかな意味をとれるようになりましたし、スピーキングも言葉選びにそんなに苦しむことなく話せるようになりました。

英語だけでコニュニケーションを取る環境へ

2015年夏のトロントの語学留学は、英語のみでコニュニケーションをとることを最優先に日本人が少ない環境を選択。
意識の高い学生の中で、英語力だけでなく知識や教養の必要性を実感し、充実した4週間となった。

高校2年生でトロントでの語学留学を選んだのは

大学入試もあるからと迷っていたのですが、4週間だけなら受験勉強も一旦置いてもいいだろうと。ただし英語をきちんと学びたいので、日本の中高生が多いアメリカやオーストラリアの語学学校は避け、意識が高い大人が集まる学校を選びました。
トロントの学校は欧州地域から来たパイロット訓練生が英語を学びに来ていて、パソコンの課題もあるなどアカデミックでした。入学資格が16歳以上で、当時私は16歳。留学生はみんな優しく、その時にはある程度コミュニケーションをとれるようになっていたので、自分のことも話せて楽しかったですね。
イタリア、スペイン、ロシアからの留学生と5人組で仲良くなり、遊びに出かけたりもしました。ロシアの子は私と同い年で、他の人は20代。実はグループの残りの一人は日本人ですが、みんなと一緒の時は日本語を話さないことにしていました。
彼女たちとも今でもSNSで繋がっています。

ホストファミリーはどうでしたか

中国人のご家族で、私の部屋のクオリティーや施設は立派なお家でしたが、普段家にいるおばさまが全く英語を話せなくて、中国語で話しかけてくるんです。筆談も出来なくて、私は英語で返すのですが、全く意思の疎通がとれないしんどさがありました。お母さんは英語が堪能だったので、会えばおやつに誘ってくれたりもして優しくしてもらいました。

困ったことはありましたか

学校生活というより、休日で通信環境に困ったことがあります。仲良しの5人組でオタワへ旅行に行った時、初めて海外の電車に乗ったのですが、帰りの電車が遅延してしまって。ホストファミリーに連絡したくても、wi-fiがなくて連絡が取れなかったのです。当時は携帯電話に海外向けのSIMを入れることが簡単にできなかったですし。当然、地図アプリは自分の現在地がわからなくなってしまいます。結局タクシーで帰ったのですが、携帯電話が使えないことを想定していなかったので、ホストファミリーの住所もメモしていなくて、最寄り駅の大体このあたりと伝えて行ってもらいました。公衆電話は使い方がわからないし、思いつきませんでしたね。

トロントでの学びはどんなことですか

5人組でナイアガラの滝へ出かけた時、竜巻や気候の話になったんです。友達はアカデミックな話をしているのに、私は知識量も足りないし語彙力もなくて、ただ聞いているしかなかった。日本のことでも特定のマンガやアニメについてなら話せますが、日本の自然災害については話せない。それは一例ですが、彼女たちとの交流で色んな気づきがありました。
中学と高校時代の3回の留学経験を踏まえて、国際学部で交換留学1年が卒業の必須
条件になっている大学を志望し、関西学院大学(以下、関学)に指定校推薦で
入学しました。

多文化に触れたヨーロッパ留学

大学3年生で大学の交換留学生に選ばれ、2019年8月~2020年3月ラトビアの大学に留学。英語で経済を学び、コロナ禍で帰国が早まるも半年間で14単位を取得。ハードな課題をこなしながら、オフにはEU諸国を精力的に訪れ、驚くような体験もした。

大学3年生でなぜラトビアに留学したのですか

日本人がおらず多くの文化を学べるヨーロッパに留学すると決めていました。ところが関学はアメリカやカナダの中期留学が豊富で、ヨーロッパの交換留学枠がそもそも少ない上に、英語以外にフランス語やイタリア語が必須の国が多かったんです。私はスペイン語選択でしたから、英語力だけが条件であることが最初の理由でした。ただ、日本ではあまり知られていませんが治安が極めて良く、物価もヨーロッパ随一の低さで、さらに希望した通り日本人が少なかったので、ラトビアで良かったと実感しています。
2019年8月に英語で経済やビジネスを学ぶコースに入りました。ラトビア人は少数で、ほとんどはイタリアなどからの交換留学生。10~15人くらいの少人数のクラスでした。

大学生活はどんな様子でしたか

課題は結構大変でした。1つの授業でレポート10枚書き、その内容に沿った10分のプレゼンテーションをしたり。
毎日こつこつこなすようにしていましたが、課題が多い時は1日中勉強していることもありました。提出期限に間に合わせるために、夜中の2時ごろまでレポートを書いたことも。満点をとったこともあり成績は悪くなかったです。その甲斐があって半年で14単位取得でき、帰国後に単位を取る必要がありませんでした。
住環境に関しては事前に大学の寮があまり清潔でないと聞いて、留学当初は学生ホテルに滞在していましたが、そこもキッチンなどが共有でそれほどきれいじゃなかったんです。ですから自分で不動産屋を通して、現地の方が住んでいるアパートを契約しました。

余暇はどのように過ごしていましたか

初めのうちは留学生のイベントに参加したりしましたが、お酒を飲んでおしゃべりしているだけなので、途中から休みは全て旅行に充てるようになりました。授業は週の2日間に朝から夕方まで詰め込んで、残りの5日間は基本的に旅行に出かけて3~4カ国回ります。クリスマスも旅先で過ごしました。たまに留学生の友人がついてくることもありましたけど、ほとんどは一人旅です。
EU28カ国を制覇しようと旅行の予約も入れていたのですが、EU圏以外も含めて23カ国回ったところでコロナ禍のため大学から帰国命令が出て、2020年3月に帰国しました。1年の予定だった留学期間が短縮されたのは残念でしたが、この後どこも国境閉鎖になりましたから結果的には帰れてよかったです。

留学の費用はどうしましたか

試験を通って交換留学になったので、ラトビアの大学の授業料は不要で、関学の学費だけですみました。さらに食費や交通費などの生活費は奨学金で賄うことが出来ましたので、親からは関学の学費と4万円弱の家賃を出してもらいました。旅行の費用は総額で60万円くらいかかりましたが、大学1年から続けていたアルバイト代をはたいて全額自分で出しました。

苦労したことは

大学生活というより、旅行中ですね。英語が通じないことも多く、国によって様子もまるで違いますし。
サバイバルのようなこともありました。 ラトビアの隣国ベラルーシに旅行した時のことです。往きは飛行機を利用し、帰りはバスで移動しました。すると、国境まで進んだところで「このビザではラトビアに行けないよ」とベラルーシの首都ミンスクへ強制送還される羽目に。ベラルーシは空路でしか出入国できないことを知らなかったんです。私が乗っていたバスはそのままラトビアに入るからと、国境付近で何もないところで降ろされてしまいました。
「どうしよう」と思っていたら、「ベラルーシ人のスクールバスがラトビアから戻るところだから、そこに乗せてもらいなさい」と乗せてもらえました。ところが、「途中までしか行かないから、そこからは自分でなんとかしてね」と運転手さんに言われてしまったのです。バスの中はもちろんみんなロシア語で何を言われてもよくわからないし、何も通じなくてただ笑っているしかありませんでした。
降ろされた地点から携帯電話で自分でタクシーを呼んで、ミンスクまで行くことができました。携帯にSIMを入れておいてよかったです。結構な長距離で現地としてはかなりの高額なのですが、ベラルーシは物価が安いので、タクシー代は1000円くらいで収まりました。その日は結局、空港泊になりました。

計4回の留学で成長したと思う点は

日本から出たことがないと安易に「日本最高」となりかねませんよね。「日本は思いやりの国だから」と聞いたりしますけど、色んな視点を持っていると「どの視点からなのだろう」と思います。私は旅行中も現地の人にいっぱい助けてもらって、多くの国の人の思いやりに触れました。ですから、そういう視点を多く持っているというのは自分の中でも成長したし、留学して良かったと思いますね。

コロナ禍での就職活動

就職活動の時期はコロナ禍まっただ中。志望していた観光業の求人が極端に少ない実情は甘くなかったが、現実から目をそらさず冷静に自己分析した。そして前向きに本来の希望を見つめ直した時、新たな目標が見つかった。

2021年4月より新社会人になりましたね。

大手エレクトロニクスメーカーに入社して、家電を主に扱うことになり、その中でも国内マーケティングに配属になりました。まずは、国内でマーケティングを学び、ゆくゆくは海外担当にという形で採用いただきました。

就活を始めた時はe-mommyエアラインスクールも受講し、観光産業を志望しておられたとのことですが、志望先を変えたのはなぜですか

大学時代にアルバイトでホテルのダイニングでサービスをしていて、「人と接するのは楽しい」、「人を笑顔にするのは楽しい」と思い、サービス業を受けていましたが、コロナ禍の状況もあって「業界を変えた方がいいのではないか」と自己分析をしました。
その結果、「何がしたいのか」と原点に戻った時に、「人を笑顔にしたいんだ」、「人を喜ばせることをしたい」と。じゃあそれは「コト」なのか「モノ」なのか。「モノでもできる」と気づくことができました。商社などはあまりエンドユーザーを感じにくいと思うのですが、メーカーならそれを使う人を見られる。使う人を考えて物づくりをするから、自分がやりたいことにちょっと似ているのかなと思いました。それでシフトチェンジしました。

葛藤はありましたか

サービスは自分が行動したことがすぐに相手に伝わるので「喜んでもらえた、じゃあもっとこうしよう」というのも楽しいですが、メーカーはリアルタイムとはいきませんから、そういうところの葛藤はありましたね。でも、やりたかったこととは少し違っていましたけど、調べるにつれてそこにはそこの面白さというか、そこでしか出来ないことがあると気づいたんです。大学時代の4年間はサービス業に携わり、留学から帰ってきてからもずっと続けていましたが、「心行くまでやって、もうサービス業は満足しよう」と。そして社会人からは「物作りという違う視点から頑張ろう」とシフトチェンジしました。

その会社に決めた理由はありますか。

人がすごく魅力的です。面接は全てリモートでしたが、非常に話しやすかった。私の中身を引き出そうとしていることも伝わってきましたし、挑戦者をウェルカムしてくれるので、そこに魅力を感じましたね。同期入社は170名、私が所属するマーケティングは20名で国内担当は私を含めて15名です。私は国際系の学部を出て、マーケティングの知識がないので、マーケティングを1から学んでから、いずれは海外マーケティングもやりたいと思っています。

将来の夢はありますか

世界中の人から喜んでもらえる商品を企画したいです。いつかは商品企画部に入り、「この国にはこんなものが必要なんじゃないかな」と沢山考えて、喜んでいただけるような商品を作るのが夢ですね。

留学を迷っている人たちへのメッセージを

「友達が出来なかったらどうしよう」とか、「英語は通じるかな」など行く前に想像しているような怖さや不安は、現地に行ったらほとんどなくなります。だからとりあえず今、行動してみれば、自分の見え方や価値観も変わります。心配しているくらいなら、自分のワクワクを信じて留学した方がいいと思います!

◎マンナミより、舞台裏ストーリー

楽しむことを重視し大らかに取り組みつつ、いつの間にか高い語学力とグローバルな視野や対応力を身に着けていかれた、理想的な留学活用例になりました。

また、ノドカさんは留学から帰国後、まずはエアライン受験準備に入られました。他メンバーから少し遅れての準備開始になってしまった上に、やがてコロナ禍で航空会社の採用が見送られました。思いがけないエアライン採用中止後も、すぐに受験先企業の幅を広げて就活を進められたこと、新たな目標を立て自分を活かせる仕事を見つけられたこと。これぞ留学で培った対応力だと感心しました。これからの活躍を楽しみにしています!

取材:庄司 裕見子(フリーライター)
2008年~19年、創業経営者に特化し、経営誌、番組制作、企業家賞主催などを
手掛ける企業家ネットワークグループ(現「企業家倶楽部」)で記者、編集作業、
広告営業等に携わる。88年~93年ベルギーに在住し、CAとしてベルギー航空に勤務